真宗時代後期概略想定図
玉清昭応宮の焼失以前です。
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徽宗時代後期概略想定図
艮嶽が作られて後のものです。
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  • 開封宋城考古隊の長年の発掘成果によって明らかになった宋代開封の外 城・内城・皇城の位置を示した図です。
  • 上の概略想定図の城壁はこれに基づいています。
  • 繁塔と鉄塔が宋代以来の建造物です。高解像度のものを見るには画像を クリックしてください。
  • この図は、丘剛著「開封宋城考古述略」(史学月刊1999年第6期)のものです。
  • (拙訳)『史滴』23号 pp.40~51に付録するため、地名は簡体字から日本漢字に直してあります。また、当時判明したばかりの汴河の位置を丘剛氏より伺い、許可を得て書き加えています。
  • 『外城之図』,陳元靚『(新編纂図増群書類要)事林広記』(元,西園精舎 刊本 国立公文書館蔵:旧内閣文庫)後集六))
  • 龍徳宮が書き込まれており,徽宗時代の外城の図であることが分かります。
  • 蔡京邸付近の橋の名称が,蔡家橋となっ ており,『東京夢華録』と異なります。
  • 瑶華宮が汴河の南に大きく書き込まれていますが、『東京夢華録』巻3、上清宮によると、金水門外にあったと記されております。この図はその点から見て不正確な面があります。
  • 上清儲祥宮・龍徳宮の位置は大体良いと思います。

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  • ピンは私が、置いたものです。州橋の東西の水色は、后河街という街路で、宋代の汴河の跡です。

  • このように、嘗ての地形を現在の地名が、示唆しているものが多いようです。

  • 画像をクリックすると、新しいページにかわります。そちらは、城壁の位置をかぶせてあります。試行版ですが、クリックしてみてください。
  • 皇城跡の竜亭公園から朱雀門にいたる街路は、現在は中山路と称されています。この街路の下に、各朝代の街路が埋まっており、7メートル下に、宋代の御街が眠っています。州橋は以前発掘されましたが,埋め戻されました。

  • 金明池は、復元されたものです。

  • 鉄塔・繁塔・大相国寺は宋代と同じ位置に立っていますので、将にランドマークとして機能します。

  • 現在の城壁は、宋代の内城を金代に南北に拡大したもので、明清時代に洪水で沈む度に修築されました。したがって、城壁の上に城壁が建っているという地下構造になっています。

  • 固子門は発掘されていませんが、ボーリング調査によってその存在が明らかになっています。